市民が考えるみんなの未来チェックリスト「我らかく戦えり」
―2023年統一地方選挙 当選した超党派議員と市民とのシンポジウム報告―
5月27日に行われたシンポジウムのご報告です(がんばろう日本国民協議会機関紙第530号に掲載)
埼玉政経セミナー共同代表 吉田理子
去る5月27日に、越谷市市民活動支援センターで開催した統一地方選挙に関するシンポジウムの報告です。これは、今年2月に行った「市民が考えるみんなのチェックリスト」で報告した候補者や市民が、実際の選挙を経て自分たちが考えていたことは通用したのか、また視点や考えはどう変わったのか、また変わらなかったのかなどについて報告をし、そのことについて皆でさらに話し合うことで私たちにとって「選挙にかかわる」ということはどういう意味を持つのかについて考えようということを目的としました。
報告者は当選した議員が5名(菊池貴光議員(越谷・無所属)、小口高寛議員(越谷・立憲民主)、山田裕子議員(越谷・越谷市民ネットワーク)、佐々木郷美議員(さいたま・立憲民主)、相川綾香議員(さいたま・立憲民主))と、市民2名(越谷市・白岡市)の7名で、まずはそれぞれの選挙の報告からスタートしました。
選挙の「内側」の想い
まずは各自の選挙報告からはじめましたが、現職、新人、それぞれの事情や思惑があり、同じように「朝駅に立つ」という行為であっても、その取り組みの目的や姿勢、こだわりなどが全く違うということがわかります。いつもは朝に立っていた人が、夜に立ってみる、子供がいる人は選挙活動が許されている8時までではなく、早めに切り上げてSNSのライブ配信に移行する、子供たちの前で演説をする、駅頭の様子をライブ配信するなど、「こうすればより伝わるのではないか」という思いや、候補者の立場を考えた無理のない活動を目指したという結果が形に表れていました。
こうした「事情」は、外から見ただけではすべて同じ「駅に立つ」という状況でくくられ、理解されることはありません。今まで私たちは「何故」その人が夜遅くまでたっているのか、または全く立たないのか、時間が短い、長いに理由があるのかなど考えたことがあったでしょうか。せいぜい「あの人は夜遅くまで立って、少しでも票を取りたいんだよね」「子供が小さいのになんであんな早くから立っているのかしら」といった偏見をもってみていたか、もしくは何も考えないで選挙風景の一部として認識していたことが多い気がします。候補者たちを見る市民の目にはフィルターがかかっていることを認識したうえで短い選挙期間をフルに使った活動を行う候補者の心理的なプレッシャーをあらためて知ることとなりました。
また、今回は候補者だけでなく市民がどう選挙にかかわったかという報告もされました。報告者(2名とも政経セミナー会員)は両名とも選対本部に加わり、事務局や総指揮など、要となる立場にいた人たちでしたが、自分のことでもないのに大変な労力を伴う選対本部になぜ関わるのかについて、それぞれが自分たちの住む地域を良くしたいという思いをもった自発的な行動であることが話されました。興味深いのはそのかかわり方で、一人は「候補者」のやりたい選挙活動をしっかりとサポートする、という姿勢であるのに対し、もう一人は「自分たち」のやりたい選挙活動のために候補者を動かすという姿勢であったことです。市民と候補者との関係が一見おかしいように見えますが、追加で候補者から、市民がやりたい選挙の軸に自分がなるということが自分の望む選挙であるということが伝えられ、双方が合意し、納得の上での活動であったことがわかりました。いずれにせよ候補者も市民も異口同音に発していたのは、選挙は一人ではできないということです。選挙はチームでかかわるものであり、選挙前から続く市民と候補者との関係、目的、信頼の深さや意思疎通の程度など様々な要因の上で成り立つものなのだということがわかりました。
また、これは事前の打ち合わせが足りなかった結果であると反省していますが、「何をしたか」はわかっても「何を争点としていたか」についての発表はなく、市民もまた政経セミナーが12月に行ったアンケート調査の結果をどうふまえて候補者を見ていたのかを伝えることをしなかったため(今回のシンポジウムに関係のある市民のほとんどが越谷市の有権者ではなかったこともありますが)、今回の統一地方選挙においてはどんな争点が考えられたのかという話まで掘り下げることができませんでした。
公職選挙法を守っていては当選できない?
後半は市民をコーディネータとした、パネルディスカッションが行われました。導入として、「選挙についておかしいと思うこと」が挙げられました。選挙事務所でサイダーやジュースを出してはいけないのはなぜか、提灯は1つまで、拡声器も1台までと制限があるのはなぜか、証紙ビラは印刷ではだめなのか?など、公職選挙法にかかわることから、街宣車を出す、出さない、選挙活動の時間が12時間あるのは長すぎるのではないか(反対に短いのではないか)など、活動中の様々な疑問が噴出しました。話は選挙の制度自体への疑問につながり、投票の方法や普通の会社員が立候補しようと思ったら仕事を辞めなければならないこと、それは女性や障がいのある人たちの立候補でもいえることで、特に新人の立候補には相当なハードルがあるということが話されました。法律は当然守るべきですが、新人候補者が公職選挙法をすべて守りながら当選を果たすことはかなり難しいと思われます。こうした問題をどう解決していくのか、また期日前投票が一般化し、当日以外に投票する人が増えている中で現行の選挙の仕組みは有効であるのかなと、選挙が終わった今だからこそ皆で語り合い、どう改革をしていくかという議論が必要であるとの発言がありました。また、オンラインの参加者からは、「選挙制度自体に立候補者本人達が既におかしいと思っていることが分かった。つまり、今の社会に適していない、前の時代のものということであるが、議員に立候補したということは、それだけ問題意識や当事者意識も強いのだろうから、選挙を通して見つけた問題について、どのように制度、ひいては社会を変えていこうと考えているのかを知りたい」、「選挙にエネルギーが取られすぎだ。選挙で疲弊して、次の選挙のための議員活動になっている方も見受けられて、ますます投票率向上に結びつかないのではないか」などの質問や意見が出され、それについて報告者たちが答えるという場面も見られました。
「政治家」とは何か
このように選挙のスタイルひとつをとっても、それぞれ違いがあることがわかるのですが、そもそも政治家という職業自体、自分のスタイルを自ら作り上げていくものだと思われます。話題は次第に「政治家とは」ということに移りました。議員本人が考える「政治家とは」という答えは、その人のこれから4年間の政治への取り組みが見えるものです。伝えたい、支えたい、話し合いたい等、彼らの「ありたい自分の姿」が語られ、情熱と希望を感じられるものでした。しかし残念ながらそれは「政治家という概念」にはなりませんでした。政治家とは何をする存在なのか、自分の姿を投影することのない客観的な定義について聞くことで、それが市民のもつイメージとどう違うのか、または同じなのかについて触れ、そこから低投票率、政治離れの原因を探っていきたかったのですが、市民側の質問をする力が足りなかったと思います。もっと時間が欲しいということもありますが、そうではなく、定められた時間の中で会の目的に到達できるようなマネジメント力を身に着けることが、「対話」を実現する一歩になるのではないか、選挙に関係なく市民と議員がこうした集まりを持ち続けることでお互いのスキルと自覚を高めていくことができるのではないかと思い、ここでも改めてコモンズの重要性を感じました。
選挙を非日常にしないという意味
最後に会場から「候補者のマニフェストを見聞きすると言葉ではどれも同じようにしか聞こえない。子育て支援します、高齢者を大事にします、世の中良くしますというのは、当選したいから言うのであってそこに差が感じられない」という意見がありました。これについて答えられるパネリストは誰もいません。市民も含めて、です。指摘されたように、「マニフェストは耳障りの良いことを言えばよい」と候補者側が思っていなかったとしても、結果的にそのように見えているということを受け入れ、他候補との違いを伝える努力をしなければならないし、市民側も、同じだと思ったならばその部分を個別に質問して、より深く候補者を知ろうという努力をしなければなりません。お互いどこかで「選挙はこんなもの」「仕方ない」という自発的隷従に陥っているのではないでしょうか。それは今回の話題にあがった議員の働き方、女性や障がい者の立候補、街宣車を使うか使わないかという問題すべてに該当します。
私たちは何のために投票をするのか、何故政治家(議員)が存在するのか、自分は何故政治家になろうとしたのか。選挙は1人ではできないという発言がありました。これは、選対本部が必要という意味ではないと思います。有権者(投票に行くいかないに関わらず)のみならず、選挙権を持たない年齢の人たちも含めた主権者が政治を意識した日常を送る事。それこそが「選挙を非日常にしない」です。政治は自分たちの生活そのものであり、それぞれの立場から政治にかかわることは社会を構成する者としての責任であるという認識を一人一人が持つような社会を私たちは望みます。そのためには「伝える」「聞く」「知ろうとする」力を磨きあう場所が必要です。埼玉政経セミナーはそうした存在になり得るよう、今後も活動を続けていきます。
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